親と子供の心が離れる~児童虐待の問題を抱えて~

児童虐待やイジメ、自殺など子供に関する様々な問題がある今、大人、特に親がどう子供に接していくかが問われている。

問題のないはずの家庭の中に

      2015/10/14

父親と母親の問題

こちらが熱心にやれば、心が通じるだろうと努力しでも努力しても、こちらの意図に反して、子ども達が思うような筋道で成長の途を歩んでいかないときのこちらの徒労感。大人の方に、体も心もっぶしてしまいかねないほどの徒労感をもたらす子ども達。生まれたときからの育ちが違うのだ。その違いがどうしてもつかめない。ずれていろ。私と彼らの間に大きな溝がある。

辛かった、かなしかった。中学生達と暮していたあの二十歳代後半の二、三年間の、いま思いだしても悪夢のような記憶の断片の数々。だが、私以上に子ども達、か辛かったろう。いまにして子どもの辛さ、か分るのだ。

彼らがごく普通の親子暮しで成長してきているのであれば、これほどのへだたりを感じないであろうにと、当時は胸をかきむしられるように痛感したのだった。

ところが、いまの私の相談の仕事の中で会う親達は、他人が思うのではない、まさに親自身が子どもとのへだたりを感じて、思うようにいかないと、歯ぎしりをかみ、心を痛めている。

子どもを放置してきたわけではないのに。親子暮しを、平均的な形で送ってきたし、親達自身も、よもや問題のある家庭だなどとは思いもしなかったのに。

子ども達は自分の心の弱さに正面から対決していけないのである。些拍なことにこだわり、流行にわけもなく足をとられ、意識の浅さぱおどろくべきもので、類型思考にはまり込み、一歩をふみとどまって自分なりに吟味するということがない。成熟しないように、足どめをくらっているのかと思うほど、幼いままのわがまま心をふりまわす。苦労があってこそ喜びかおるもので、片労を逃げてばかりいれば、真の喜びを味わうことがなくて、早くから人生に飽きる。幼年時に、「自分」というものが育たないうちから、厭世的自暴自棄だけが身についた子どもが、出現する世の中になったのである。

子どもの背後に母親の問題

普通の家庭に起こった子どもの問題を追っていくと、それは母親の問題の反映であることに気づかされる。それほどのゆとりはないにしても、衣食住は世間なみに保障され、日々さほど変動のない、安定した生活環境の中で、母親は母親なりに、子どもに目をそそいで懸命に育ててはきたのだ。

親が欠けたり、生活そのものが食うや食わずであったりでない以上、子どもが特別問題のある変った子どもになるはずはない。そう思い込んでいて、母親は子どものことを幼いうちから思いつめるほど心配したこともない様子ではある。だのに子どもが思いがけず問題的状況にのめり込んでいく。これでは駄目だと母親があせればあせるほど、ますます子どもが駄目になっていく。

もともとうちの子どもに悪くなる要素がひそんでいたのだろうか。運命的な因果関係でこうなっていくのだろうかと、母親は絶望しがちである。

心が開かれれば問題の解決には向かえないのに、あせったり絶望してしまうと、母親の心はますます硬くいびつになり、横から押しても突いてもどうにもならない。母親自身一生懸命子どもの成長に力を貸しているかに見えて、反対に邪魔だてし、のさばって、足を引っぱり、重しをのせていく。

しなければならない大事なことと、しても無駄なことと、そして逆にかえってそうすることが害になること、そのいずれかの見きわめをつけることができず、よかれと思って害になることをする。親子が二十四時間接近しすぎているための問題もある。子どもに近づきすぎて、子どもの心の中が読めないような状態になっていく。

また、子どもの問題に気をとられて、自分の問題が見えなくなってもいく。例えば、「ガミガミ言いすぎるのがいけないと、人によく言われます。確かに私は子どもにガミガミ言いすぎると思います。よく分っているのです。よく分っているのですが、これは私の性分です。どうにもしようがありません。ところで、うちの子の問題は、親の目を盗んで親の財布からお金をもち出すことなのですが、いくらガミガミ怒ってもやめないのです。小学二年からこんなことが常習では先が思いやられます。どうしたらいいでしょう……」というように、自分の悪い習慣がなおせないのはやむを得ないが、子どもの悪癖はどうでもこうでも禁止しなければならない、と母親が力みかえっている。そういう母親にしょっちゅうお目にかかる。

母親が、自分自身どんなふうに子どもにかかおり合っていて、その効果がどんなものかということが、よく分らず、分ろうともせず、極度の近視眼におちいり、実質としては、子どもを甘やかす一方になっている。一方で甘やかしながら、一方でしっかりしないことを軽蔑したりいらだつたりしている母親に、そのことを指摘すると、因果関係は必ず逆にとらえられてしまう。「子どもがしっかりしないから、ここまでしてやらねばならないのです、親の気持は他人には分力ません」と、むしろこちらへの反発がかえってくる。

「私だけ、がこの子の親です」と叫んでしまうときの母親の、センチメンタリズムヘの溺れ込みは、もう第三者には手のつけられない閉塞状況なのである。

自己閉塞におちいっている様子を横から見ていると、案外、この自己閉塞は、母親だけの問題ではないことが見えてくる。母親をとりまく閉塞的状況を形づくっている一つの大きな要因は、父親の存在のしかたである。

共働きが多くなったといっても、全体状況を概観ず往は。いまもなお一家の生計をささえているのは父親だといっていいだろう。父親あるいぱ人が、一家の主として、宗庭全体のおり方を方向づける。

児童福祉法にかかる児童相談の実際業務を民間活動の立場から見てきた間中、私は、児童の問題だからといって、当の児童のみが対象なのではなくて、その親の問題の解決を計ることがそのまま児童の問題の解決となる場合が多く、子どもにとっての親といえば、たいてい母親へのタッチに限ら牡るのが普通であったが、しかし、家庭の問題は、父親をぬきにして考えることはできない。児童福祉法上の相談活動が、父親を第一の対象とするまでには、なお幾年月をがするのであろう」と、よく考え込んだものであったが、さらに考えてみれば、一般に、父親というものの形が、あまりにも定かではないのである。

小さな相談室を自営してみて、父親というものの存在の不確定な様子を、直視する機会にこと欠かなくなった。子どもの育つ基本の場が、依然として家庭であり、家庭の経済的安定を支えるものが男であり、夫であり、父親である以上、あまりにも曖昧にイメージのぼやけたいまどきの父親の姿に、もうすこし、未来展望的な明確な輪廓を与えてみることが、いま大変大事なことだと思うようになった。

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